輪読文献 要旨

書記担当の友予です!

今回は「自律的な英語学習者を育てるには?」という章題のもと、学習成果に向けて、教師/授業が比較的変容を与えやすい「学習者の特徴」について学びました。主な特徴は①学習動機と②学習方略で、これらはともに、英語科教育において「多様性」が考慮されるべき観点だと捉えます。教師は、英語に対する学習者の見方が決して同質ではなく、個人差が存在するものだと認識すべきではないでしょうか。

また、上記の内容を深める上で、キーワードとなるのは「国際語としての英語」です。今回の輪読では主に、

・「〇〇英語」という枠組み(:枠組みの「外」が生まれる連鎖)

・教師によるMy Englishの提示(:学習者の困惑を引き起こす危険性)

・「正しさ」の基準(:英米規範への信頼と固執)

という3つの問題点を話し合いました。「国際語としての英語」が学習動機・学習方略の「多様性」に良い影響を及ぼすためには、議論すべき重要な点だと思います。

 何かご質問・ご意見あればよろしくお願いいたします。

書記担当のももこです(#^^#) 

今回は言語研究の背後にはどんなイデオロギーや人々の考えがあるのかを学びました。その中で、教師を目指す私たち自身がどのように言語と向き合っていかなくてはならないのかについて議論しました。 

かつて強い力を持っていた国は、他の国に自分たちの言語や文化を押し付けていたという歴史があります。支配する側の国の人々には自分たちの優れた言語、を劣っている国の人々に「教えてあげる」という気持ちが働いていたと考えられます。被支配国の人々にしてみれば、強大な力で言語や文化を押し付けられてしまえば受け入れざるを得なかったとも考えられます。しかし受け入れた市民側にも問題・責任があるのではないかという話になりました。 

また支配国の人々は自分たちの言語は絶対的に正しいという前提に基づいて、自分たちの言語の優越性を説いてきました。言語の正しさとは、その国が正しい体系をもっている、正当な国であるということの証明のようなものと考えられていました。その点で、言語の正しさは、その時代の人々にとって重要なことでした。しかし現代の英語教育の場面では、英語という言語の正しさ、つまり正解にたどり着けなかった子どもが授業から排除されてしまっているという現実があります。そうした現実を考慮し、英語の授業では言語の「正しさ」にどう向き合うべきかを考えました。 

今回の議論で問題になったことを考えていく上で、世界史に関する知識や、言語の構造そのものに関することなど、まだまだ勉強しなくてはならないことが沢山あると痛感しました。何か質問やご意見があればよろしくお願いします。   

こんにちは、書記の飯塚です。 

 今回は概念意味論から動詞と構文について考えました!明確な違いがないように思える構文を、よく見ると動詞やそれが用いられている構文がもつ意味の違いによって区別できるということを学びました!この意味の違いというのは、わたしたち人間がどのように現象を捉えているかということで、もっと細かく見ると幾何学的・物理学的に現象を区別します。このような概念的な意味を思考の言語とされているそうです。  

この思考の言語からサピア・ウォーフの仮説についての議論になりました。概念意味論では思考があって言語があるという捉え方をするが、仮説では言語があって思考があると考えているという話がありました。そこで、言語、思考、加えて現実の3つはどの順番で成り立つのか各々考えました。現実→思考→言語と考える人もいれば、現実→言語→思考と考える人もおり答えが出ませんでした。ここからどの要素も少なからず互いに影響しあっているということが分かりました。サピア・ウォーフの仮説についても捉え直すことができました。  

入試関連の業務がずっとあって。

また、3月締め切りの原稿が4本ほどあり、まったく更新できませんでした。

ゼミ生の自主ゼミ「言語楽」に関する記事は、後日、ゼミ生に書いてもらいます。

詳しい内容は、担当ゼミ生に任せ、ここでは個人的な所感を少々。


3月5日の言語楽では、スティーブン・ピンカーの『思考する言語』の上巻のうち、第2章について議論しました。

仲ゼミ的には、あまり扱わない領域ですが、隣接領域から学ぶことは多いです。

学部時代に、認知言語学の専門家のゼミにいたこともあるからかもしれません。

ピンカーさんの言語論は、認知的あるいは心理的な側面から切り込んでいます。

2章では「動詞」を中心に人間の心について迫るものでした。

仕事柄、学生からよく英語についての質問を受けますが、説明のツールが1つ増やせそうだと思います。

若林俊輔さんが、生前、学習者が納得できる説明をたくさん持っておくべきといった旨の発言をされています(『これからの英語教師』、大修館)。その意味で、いつもの社会言語学関連だけではなく、幅広い観点から言語を考えていきたいと思っています。


3月15日の言語楽では、うってかわって、ルイ=ジャン=カルヴェの『言語学と植民地主義』の第1章がテーマでした。

こちらも詳細は担当者に任せますが、個人的には、上記の文献とあわせ、カルヴェ的にはピンカー論文はどのように映るのか考えておきたいと思います。

第1章は主として歴史的な流れの中で、言語学者の無自覚なイデオロギーが国民国家の成立や他言語への抑圧として機能してきたことが指摘されています。

ピンカーの議論は、「ある文を非文法的と呼ぶのは、英語を母語とする人ならばそういう言い方をせず、もし耳にした時には当惑して、それは変だと判断する」(p.74-75あたり)とあるように、「母語話者」規範の言語探求です。

かたや社会言語的には、そもそも「母語話者」ってなんだ?とかそれ自体がイデオロギーであって、実体がないとか。そういう切り口も見られます。

一見すると、排他的な批判になりそうな気もしますが、でも実際には分析・考察の次元が違うので、どちらかを切り捨てるというのもいけないなぁと思います。

社会言語学と認知言語学の統合理論なんてのは、僕には荷が重すぎますが、せめて総合的・多角的に言語を見つめる切り口として今後も学んでいきたいと思います。


こんにちは、書記担当のりょーへいです。今回は「対話と会話の違いとはなにか」という議論が中心でした。

 今回読んだ本では、対話の定義について「対話ではない何かを定義することで対話とは何かを追い求める」とあります。そして、この本では対話ではないものとして、①会話②暴力・武力行使の2つが挙げられていました。つまり、これらを削っていけば、対話の意味はおのずと理解できるというわけです。一見するとなんとなく理解できるのですが、ここには重大な問題がある事に気がつきました。それは「そもそも会話がなんなのか曖昧なのではないか?」ということです。このような流れを受け、今回は「対話と会話の違いを明らかにする」という内容で議論が進んでいきました。

 対話と会話の違いとして、今回の議論では、2つの特徴が挙がりました。1つ目は、「会話はルールがその場できまるのに対し、対話はルールが存在するという前提さえも存在しない」ということです。これは本に書いてあった内容です(すみません、結局僕はこの意味がよくわかりませんでした)。そして、2つ目の違いとして「価値観の変容があるかどうか」ということが挙がりました。言い換えるならば、「対話は個人の価値観の変容を引き起こすものであるのに対し、会話は必ずしもそうではない」ということです。

 また、そのような議論から発展して、「『主体的・対話的な深い学び』にある対話的とはどういうことか?」というトピックへと話が進んでいきました。先ほどの話に戻りますが、どうやら対話と会話は別物なようです。そのため、アクティブ・ラーニングも対話的と明記している以上、会話になってしまわないようにしなければなりません。ところが、学校の中で実践されている授業のほとんどは、教師があらかじめ問題や到達目標を設定しているという点で、ルールがあらかじめ決まっています。これは、先ほど挙がった「会話はルールがその場できまるのに対し、対話はルールが存在するという前提さえも存在しない」という特徴に反します。このことを踏まえると、授業の中の対話は、結局のところ会話の次元にとどまっているのではないか?という問題点が浮かび上がりました。他にも、そもそも教室内で究極の対話の形を追求するなんて不可能なんじゃない?という意見も出ました。

 結局、この問題に関する解決策は出てきませんでしたが、議論の流れ自体はこのような感じです。今回の内容は非常に抽象度が高く、恥ずかしながら僕自身理解があまり追いついてませんが、何か質問や意見等あればお願いします。

こんにちは!書記のM2のそがです。

今回は、言語とアイデンティティに関する議論でした!

話し合いの主な要点は、以下の3点です。

① 言語とアイデンティティの関係には、ボジティブなものとネガティブなものがある。

② 長い歴史の中では、多くの言語が消えてきたという事実がある。では、言語を保護する目的は、単に延命治療を施すことなのか。

③ 言語は他の言語との差異が顕著であるほど、帰属意識が生まれやすい。では、どこまで「自分らしい英語」が許されるのか。

特に、③に関しては、日本人英語というのも言われるようになってきているので、教える側として線引きの基準について考えてみたいと思いました。

他にも、議論の内容に関して書きもらしとか、言いたいこととか、気になることとかあれば何でもお願いしますm(_ _)m

ひつじ書房さんから、昨夏に刊行した『これからの英語教育の話をしよう』。

これをきっかけに、昨年末から著者たち3人で、ひつじさんのウェブマガジンに連載させていただくことになりました。


第2回は、わたしが書きました。

こちらです→http://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2018/01/15/letstalk-2/


ご笑読ください!


先日、『これからの英語教育の話をしよう』を読んでくださった方から、メールをいただきました。久保田竜子先生からです!!!!!

わたしの章に興味を持っていただけたようで、関連する拙稿を~とのことで、さっそく送りました。すぐさま返信が…!恐縮すぎます(><)


久保田先生からも、最近の研究動向を教えていただき、さらにご論文を1本送っていただきました。後日、「言語楽」で取り上げ、ゼミ生の議論など含め更新したいと思います。

久保田先生の調査によりますと、日本の英語教育は財界主導といいながら、ビジネスの最前線で活躍しているかたがたへのインタビューからは、むしろかけ離れた政策が施されているとのこと。

先日、わたしも知人とのやりとりで、ちょうどそういった話になっていたので、実証的な研究があるのは心強いです。

わたしが院生時代から、多くの刺激を(勝手に)いただいておりましたが、今後もやはり、ご研究を追いたいと思います。

岐大教育学部の 仲潔(なか・きよし)です。

数年ぶりにブログを再開しました!

あ、いや、「英語科教育法」向けのブログは10年近く続けているのですが。

それとは別に、ことばやコミュニケーション、教育について語る場です。

おもに、ゼミ生による自主ゼミの議事録、わたしの思い付き記事、文献紹介などを更新していきます。