入試関連の業務がずっとあって。
また、3月締め切りの原稿が4本ほどあり、まったく更新できませんでした。
ゼミ生の自主ゼミ「言語楽」に関する記事は、後日、ゼミ生に書いてもらいます。
詳しい内容は、担当ゼミ生に任せ、ここでは個人的な所感を少々。
3月5日の言語楽では、スティーブン・ピンカーの『思考する言語』の上巻のうち、第2章について議論しました。
仲ゼミ的には、あまり扱わない領域ですが、隣接領域から学ぶことは多いです。
学部時代に、認知言語学の専門家のゼミにいたこともあるからかもしれません。
ピンカーさんの言語論は、認知的あるいは心理的な側面から切り込んでいます。
2章では「動詞」を中心に人間の心について迫るものでした。
仕事柄、学生からよく英語についての質問を受けますが、説明のツールが1つ増やせそうだと思います。
若林俊輔さんが、生前、学習者が納得できる説明をたくさん持っておくべきといった旨の発言をされています(『これからの英語教師』、大修館)。その意味で、いつもの社会言語学関連だけではなく、幅広い観点から言語を考えていきたいと思っています。
3月15日の言語楽では、うってかわって、ルイ=ジャン=カルヴェの『言語学と植民地主義』の第1章がテーマでした。
こちらも詳細は担当者に任せますが、個人的には、上記の文献とあわせ、カルヴェ的にはピンカー論文はどのように映るのか考えておきたいと思います。
第1章は主として歴史的な流れの中で、言語学者の無自覚なイデオロギーが国民国家の成立や他言語への抑圧として機能してきたことが指摘されています。
ピンカーの議論は、「ある文を非文法的と呼ぶのは、英語を母語とする人ならばそういう言い方をせず、もし耳にした時には当惑して、それは変だと判断する」(p.74-75あたり)とあるように、「母語話者」規範の言語探求です。
かたや社会言語的には、そもそも「母語話者」ってなんだ?とかそれ自体がイデオロギーであって、実体がないとか。そういう切り口も見られます。
一見すると、排他的な批判になりそうな気もしますが、でも実際には分析・考察の次元が違うので、どちらかを切り捨てるというのもいけないなぁと思います。
社会言語学と認知言語学の統合理論なんてのは、僕には荷が重すぎますが、せめて総合的・多角的に言語を見つめる切り口として今後も学んでいきたいと思います。