『言葉とアイデンティティ:言葉の選択と使用を通してみる現代人の自分探し』(小野原信善・大原始子 2004)第5章を読んで

こんにちは!書記のM2のそがです。

今回は、言語とアイデンティティに関する議論でした!

話し合いの主な要点は、以下の3点です。

① 言語とアイデンティティの関係には、ボジティブなものとネガティブなものがある。

② 長い歴史の中では、多くの言語が消えてきたという事実がある。では、言語を保護する目的は、単に延命治療を施すことなのか。

③ 言語は他の言語との差異が顕著であるほど、帰属意識が生まれやすい。では、どこまで「自分らしい英語」が許されるのか。

特に、③に関しては、日本人英語というのも言われるようになってきているので、教える側として線引きの基準について考えてみたいと思いました。

他にも、議論の内容に関して書きもらしとか、言いたいこととか、気になることとかあれば何でもお願いしますm(_ _)m

ことばと文化の学びの場~これからの英語教育のために~

コミュニケーション、ことば、文化、社会、そして教育。 英語科教育が抱えるさまざまな問題について考える、 岐大の仲 潔(なか・きよし)とそのゼミ生による発信の場です。

5コメント

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  • NAKA, K

    2018.02.05 13:59

    みなさん、返信をありがとうございました。 言語を数えるには何かしら社会的なカテゴリー(国家や民族など)と結びつけて、その輪郭を実体化することにつながると思います。そうなると、「XX英語」という発想は、近代国家における言語観と基本的には同一線上の論理になるなぁと思ったりしています。言語問題を、お気軽に文化や社会と結びつけて片付けてしまうのもいかがなものかと思いますし。このあたりは、Cameron(1990)や糟谷(2000)などをもとに、「英語論の構図:英語帝国主義論と国際英語論の包括的理解のために」というのを若い頃に書きましたので、そちらについてまた一緒に学びましょう。
  • ももこ

    2018.02.05 02:12

    コメントありがとうございます! 桃子です。 ③の質問に関してお答えいたします。 それぞれの言語に差異があることは理解していました。しかしながら、言語間の差異が「顕著である場合」と「顕著でない場合」の比較の基準は、今まであまり意識したことがありませんでした。これまでは、言語の差異の大きさは実際に文章を読んでみたり、音声を聞いてみたりするなど、主観的に判断してきてしまったことが多かったと感じます。改めて言語の差異を比較するための基準とは何かと考えてみると、それは個人の思い込みであり、画一的な基準はないのではないかと思います。しかし言語の多様性を学ぶ上で、人がどのような部分に言語の差異を感じるのか、これからより考えていかなくてはならないと思いました。 「日本人の英語」について考えてみましたが、次のようなポイントがあるのではないかと思いました。まず「日本人の英語」を使うことによって、より自分が伝えたいことを適切に表現しやすくなるということがあるのではないかと考えました。一方で「日本人の英語」が普及することで、日本人にしか伝わらない英語になってしまう可能性があります。また、仮に相手に伝わらなかったときに、説明できる英語力が必要になるという側面があります。シンガポール英語やインド英語といった英語もありますが、「日本人の英語」という見解が妥当であるかについては今後の課題として探求していきたいと思います。
  • たつや

    2018.02.05 02:12

    飯塚です_(._.)_ ②についてお答えしたいと思います。 言語復興とアイデンティティに関する議論の中で、アイヌの文化保護サークルの話が出てきました。現在アイヌの人たちはアイヌ文化を広めようとする人もいます。しかし、過去の抑圧の歴史もあり差別されないようにアイヌであることを公にしていない人もいるそうです。また、アイヌ復興のための法律が制定されるも、アイヌとしてのアイデンティティをもつ人は減少してきているそうです。このことから言語・文化を保護することは本当にアイヌの人たちのためになるのかという議論になりました。保護し存続させることが、彼らを苦しめることもあるのではないかと考えが出てきました。アイヌのアイデンティティに対して、これを受け入れたくないと思う人もいるということです。ここから、保護したとしてその後の適切な解決策が見つかりませんでした。保護するだけで何もできないのは「延命治療」のようではないのかなと思いました。  この議論を通してまだまだ不勉強であると実感しました。これをきっかけに言語とアイデンティティについても理解を深めていきたいと思います_(._.)_