小坂貴志 (2017)「第4章 コミュニケーションと対話」『現代対話学入門』 (pp.83-105)

こんにちは、書記担当のりょーへいです。今回は「対話と会話の違いとはなにか」という議論が中心でした。

 今回読んだ本では、対話の定義について「対話ではない何かを定義することで対話とは何かを追い求める」とあります。そして、この本では対話ではないものとして、①会話②暴力・武力行使の2つが挙げられていました。つまり、これらを削っていけば、対話の意味はおのずと理解できるというわけです。一見するとなんとなく理解できるのですが、ここには重大な問題がある事に気がつきました。それは「そもそも会話がなんなのか曖昧なのではないか?」ということです。このような流れを受け、今回は「対話と会話の違いを明らかにする」という内容で議論が進んでいきました。

 対話と会話の違いとして、今回の議論では、2つの特徴が挙がりました。1つ目は、「会話はルールがその場できまるのに対し、対話はルールが存在するという前提さえも存在しない」ということです。これは本に書いてあった内容です(すみません、結局僕はこの意味がよくわかりませんでした)。そして、2つ目の違いとして「価値観の変容があるかどうか」ということが挙がりました。言い換えるならば、「対話は個人の価値観の変容を引き起こすものであるのに対し、会話は必ずしもそうではない」ということです。

 また、そのような議論から発展して、「『主体的・対話的な深い学び』にある対話的とはどういうことか?」というトピックへと話が進んでいきました。先ほどの話に戻りますが、どうやら対話と会話は別物なようです。そのため、アクティブ・ラーニングも対話的と明記している以上、会話になってしまわないようにしなければなりません。ところが、学校の中で実践されている授業のほとんどは、教師があらかじめ問題や到達目標を設定しているという点で、ルールがあらかじめ決まっています。これは、先ほど挙がった「会話はルールがその場できまるのに対し、対話はルールが存在するという前提さえも存在しない」という特徴に反します。このことを踏まえると、授業の中の対話は、結局のところ会話の次元にとどまっているのではないか?という問題点が浮かび上がりました。他にも、そもそも教室内で究極の対話の形を追求するなんて不可能なんじゃない?という意見も出ました。

 結局、この問題に関する解決策は出てきませんでしたが、議論の流れ自体はこのような感じです。今回の内容は非常に抽象度が高く、恥ずかしながら僕自身理解があまり追いついてませんが、何か質問や意見等あればお願いします。

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